電波少年スタッフ死亡事故 (4)

11月5日放送、日本テレビ系「世界一受けたい授業」2時間SP






テレビ70年史として、電波少年が終了した死亡事故のタブーについて言及される。


大人気番組だった電波少年は、番組が始まった1992年頃「アポなし」ロケで様々な大物芸能人や著名人に突撃ロケをしており、MC松村が社会党(当時)の村山富市の眉毛を切ったり、南アフリカに行った時は、当時の大統領に会いに行ったりと、ドキュメンタリーとしても面白かった。


番組として人気が出てきたのは、猿岩石のヒッチハイクあたりの1996年あたりから。ドロンズの南北アメリカ大陸縦断ヒッチハイクもそれなりの成功をして、日曜朝には「雷波少年」なる派生番組も作られた。


電波少年として人気があったのは1996年~1999年あたりで、それ以降は番組名がコロコロと変わって、いつの間にか番組は終了していた。




そんな人気番組「電波少年が終了した」とタブーになっている死亡事故とは、いったい何があったのか?




今回は、電波少年でタブーとされている死亡事故について、5ch情報をまとめてみた。



■目次

電波少年とは
電波少年の死亡事故
電波少年スタッフ死亡

電波少年とは

電波少年スタッフ死亡事故 (2)



電波少年は、1992年7月5日から現在に至るまで断続的に主に日本テレビ系列で放送されているバラエティー番組のシリーズ。


「アポなしロケ」、「ヒッチハイクの旅」、「懸賞生活」など無名の若手お笑いタレントによる数々の奇抜な体当たり企画で人気を博し、全盛期には視聴率30.4パーセントを記録し、日本テレビの1990年代黄金期を支えた番組でもあった。


一連の体当たり企画の奇抜さは、総合演出を務めた土屋敏男も「あんなに放送する局に負荷のかかる番組はない」と回顧するほど、出演者やスタッフに過酷な制作を強いた。土屋はWOWOW版のオファーを受けた際もこの過酷ぶりを思い出し、一度は「できる訳がないなあ」と苦虫を潰したが、同期の田中晃から再びオファーされたことでWOWOW版が『電波少年W』として実現した。



参照wiki




目次にもどる

電波少年の死亡事故






電波少年と検索すると「電波少年 死亡事故」という検索サジェストが出現する。


結論から言うと、「電波少年で死亡事故」が起きたわけではなく、電波少年のテーマソングを担当していた人気バンド「BEYOND」黄家駒が、フジテレビ「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」収録中のセットから転落し頭を強打する死亡事故でなくなってしまったことがきっかけ。



電波少年スタッフ死亡事故 (1)



なので、「電波少年は死亡事故で番組が終了した」わけではない。




電波少年が番組終了した理由としては、表向きは「コンプライアンスが厳しくなったこと」により、土屋プロデューサーが面白い企画が出来なくなること、視聴率も低迷してきたこともあって、番組終了となった。




しかし、土屋プロデューサーが売れていない芸人をアイマスクをさせ、ヘッドフォンを無名芸能人に付けさせてその挑戦させる場所へ連れて行く手法は、現在のTBS「水曜日のダウンタウン」でも行われている手法であり、コンプライアンスに違反しているというわけでもない。



そして、好評だった懸賞生活やスワンボートの旅は、芸人本人が「やります」と返事をして、企画に参加している。なので、パワハラでもないし、強制でもない。



だが、過酷な企画が多かったのは事実で、猿岩石のヒッチハイク企画では、あまりにも治安が悪いところは飛行機に乗ったり、それを伏せていたため「やらせ」と問題になった。



土屋Pの後日談では、この飛行機に乗せたのは「やらせ」ではなく、ガチで当初は旅に挑んでいたのだが、「命に係わること」と判断したので、現場の判断で予定変更せざる得なかったそうだ。


しかし、「アポなし」路線のころから言われていた「やらせ番組」と判断され、低俗番組のレッテルを貼られ、徐々に視聴率が低迷していき、番組終了という流れとなってしまった。






目次にもどる

電波少年スタッフ死亡


電波少年スタッフ死亡事故 (3)



電波少年は死亡事故を起こしたわけではないが、スタッフが死亡するという事故は起きている。





しかし、それは「電波少年の元スタッフが死亡する」という事故。
電波少年が番組終了後、その同じ枠で始まったのが2003年『雲と波と少年と』という番組。この番組は、田舎に暮らすことをテーマにしたドキュメント番組であり、島崎俊郎と子供たち家族が住民票を移し、子供も転校させ屋久島に移住させていた。


しかし、放送第1回が終わった後、メイン企画に関係していた「電波少年の元スタッフ」が飲酒状態で車を運転し、死亡事故を起こしてしまった。この死亡事故が起きたこと、視聴率も悪かったこともあって、番組はわずか6回の放送で終了となった。





その穴埋めとして「電波少年」の総集編などを放送したことにより、「電波少年のスタッフが死亡事故を起こした」というワードが検索サジェストに残ってしまったと思われる。





なので、正しくは電波少年の番組では、死亡事故は起きていない。



もともと「電波少年」は、あくまでも「くだらないこと」を、タブーを無視して愚直にやることが純粋な笑いにつながっていた。沢木耕太郎の『深夜特急』をモチーフにした「猿岩石のヒッチハイク」は、当初から明確なゴールのあるちょっとだけ真面目な企画だった。



さらに有吉らのリアルなリアクションが話題を呼び、引っ張られてアーティストが応援歌をつくったりと、芸人である二人を「頑張っている日本の若者」として扱うようになった。その延長線上にゴール後の猿岩石のCDデビューがある。



もちろん、有吉にとっては不本意だったかもしれないし、単純に収入増を喜んでいたのかもしれないが、電波少年としては大きな転換期となった。これ以降、電波少年という番組としても「お笑い要素」は薄まり、意図が変わって「感動的な番組」になってしまった。




後日談で土屋Pは、「お笑い番組なのに感動が求められるゆがんだ現状」を自虐的に表現しているし、 「若手芸人を徹底的に追い込んでいけば労せずして人気番組が出来上がる」という番組の意図とは変わってしまったことを分析している。



電波少年が終わった理由もその事を引き合いに出して、「バラエティー番組には多少の過剰演出も必要だ」ということを言いたかったのかもしれない。





スポンサーサイト